ウワノキカクのキカクメモ

T.Uwano 広告会社でのストラテジックプランナーを経て、2016年夏より「ウワノキカク」にて事業を展開しています。「社会のために」「人のために」。その思いが事業を通じてより多くの人に届くための事業づくりをサポートしています。

何のために知識を増やす学びを行うのか?

Q.何のために知識を増やす学びを行うのか?
 
 
A.「主体性」を取り戻すため。

 

「知識」は人を幸せにしない

知識を増やすことは、それ自体に良いも悪いもないと思っていて、知識魔神のような人の中には、とても幸福そうな人からとても不幸そうな人まで、かなりのバリエーションがあるように見受けられます。
 
つまり、知識を増やすことそれ自体は、幸せな人生とは直接に因果関係や相関関係を持たないと思っています。
 
 

それでもなお日々新しい知識を取り入れるのは、知識を取り入れることによって、自分の人生を主体的に意思決定できる領域が拡大していくと信じているから。
 
そもそも、人間の脳は環境のすべてを情報処理しているわけではなく、かなり恣意的に情報の取捨選択、カテゴライズ、意味付けをしています。
 
友人と一緒に映画を観ても全く違う感想をもち、全く違う点に気づいているのも、2人の脳では違う情報処理がなされているから。
 
いまでも覚えていますが、『ハリーポッターと賢者の石』を読んだときに、自分は「ハリーはあんなに大きな決断ができるハリーはすばらしい!」と感じましたが、ある友人は「多少嫌なところがあるとは言え、あんな形でお世話になった家から飛び出すのはちょっと信じられない」と言っていたのは印象的でした。
 
こうした違いが生じるのも、まさに見えているものが違い、それをどう意味づけるかというシステムが異なっていたからです。
 
 
 
 

認知の情報処理システムはどう作られるのか

情報処理のシステムは、その瞬間の脳のコンディションで決まります。
 
1つは、それまでに得た経験を統合し、「こういうときはこう反応する」という仕組みが形成されていて、それに従って処理されるということ。
 
いつも自分を褒めてくれる先生を見れば、とても満たされた嬉しい気持ちになったりするのは、「その先生=いいもの」という認知が過去の経験で形成されているから。
 
もう1つは、その時の感情的な状態で、GoodなテンションのときはものごとがすべからくGoodに見え、BadなテンションのときにはBadに見えてしまうということ。
 
幸福度や不幸度(という言い方はしないか)は正のフィードバックループを描き、幸福な人には更なる幸福が、不幸な人には更なる不幸が舞い込んでくるのもこういうことですね。
 
いずれにせよ、脳の認知は「過去」と「現在」が形成します。
 ※実は、この文脈で「未来」がかなり重要な要素であるという話もありますが、ここでは一旦は横においておきます。
 
 

人間が「過去」と「現在」で認知を形成しているということは、言い換えれば、かなり意識的に情報獲得や経験をしないと、無意識的に他者に自分の人生を統御されてしまうということになります。
 
他者に与えられた情報を鵜呑みにし、他者に感情的な体験を強く植え付けられてしまうと、それを土台にしながら自分の認知のシステムを他者に作られてしまうということに繋がります。
 
そうなると「あれ、自分って本当にそんなこと思ってたんだっけ?」「自分で選んだ気がするけれど、本当はあまりこういうのは好きじゃないかもしれないな…」といったことが生じてきます。
 
その違和感は無意識が自分にアラートを鳴らしてくれているということなので決して無碍にしてはいけない感覚だと思っています。
 
どこか、主体的に物事を判断できていないときに内側から生まれてくる大切な「声」です。
 
 
 
 

「知識」は私たちに何をもたらしてくれるのか

しかし、自分の過去の体験を変えることは人間にはできませんので、どうすれば本当の意味で主体的に人生を意思決定できる状態に近づけるのでしょうか?
 
その助けとなるのが「知識」です。
 
知識情報は、自分の脳にある認知を形成する概念的なベースになるので、既に獲得されている知識に基づいてすべての認知のシステムが作られています。
 
勿論それは、「知っていることしか見えない」ということではなく、むしろ「知っていることで知らないものが見える」ということです(→「無知の知」)。
 
脳内の情報処理のシステムが書き換わっていくための1つの重要な要素は、脳に新しい情報を取り込み、自分の認知や情動の在り方、意味付けを変えていくことをするということになります。
 
 

そこで気になるのが、「知識って、結局は誰かが既に形式化したものでしょ?ということは、結局それも含めて他者にコントロールされるということでしかないんじゃない?」という問いが生まれるところです。
 
確かに、知識としてアクセスできる情報の99.99999…%は他者が既に加工した情報です。
 
しかし、より大切なのは「知識を組み合わせてどのような認知構造を作るか」というところです。
 
2人の人間がそれぞれ全く同じ100の情報をもっていたとしても、それらの組み合わせとして生み出される情報処理の在り方が同じであるわけではありません。
 
過去に入ってきた順番や体験に紐づく意味付けの重さなどによって、全く違う認知のシステムを作り上げます。
 
そこに、自分の独自性と主体性が生まれる余地があります。
 
なるべく他者がパッケージ化した情報を排除し、オリジナルな組み合わせを作り、物事の見方を変えていく。
 
そうした営みの先に、主体的な自己決定に向けた選択のベースが作られていきます。
 
 

「知識」の有効活用には組み合わせのオリジナリティが必要

こうした理解を前提に考えれば、新しい知識の獲得という学びには「現状より幾ばくかでも主体的に意思決定できる余地を拡大する」という意義が見いだせます。
 
ではなぜ知識魔神が必ず幸福ではないかというと、そこには「自分がどうなりたいのか」という未来に向けた意思決定がなされていないから、たくさんの知識の意味づけをすべて外部化し、主体的な意思決定ができない状態を維持してしまっているからです。
 
大切なのは、情報の組み合わせのオリジナリティを確立することです。
 


そのオリジナリティを作るために必要なことが2つあります。
 
1つは、ときどきランダムな情報獲得の機会を設けておくこと。
 
2つめは、「未来」に明確なゴールを設定すること。
 
自分の興味関心の先にあること「だけ」を学んでいると、そこにはその情報獲得のプロセスも既に誰かが敷いたレールの上であることも多々あります。
 
そうならないためには、ときどきでかまわないので、全く関心のない情報にもオープンな状態を作り、しっかりとその情報を取り込む努力がとても有効です。
 
そして更に、先ほど横においておいた「未来」を自分の意思で措定し、そこからのフィードバックを得ながら情報の組み合わせの在り方を再検討することが重要です。
 
だからこそ、私たちは「ゴール」というものを設定します。
 
 
 
「ゴールの設定」というテーマはまた改めて扱うとして、「知識を獲得する」という営みが究極的に目指すものが何であるのかを理解しておくことで、知識を獲得することの意義にリアリティが持てますし、更には知識魔神になること自体には意味がないということも判断できます。
 
いま自分に必要な学びを選択するためにも、ぜひ参考になればと思います。
 

コンサルタントとしてのプライド。中小企業・NPOのビジネスやマーケティングのポイントを探る。

いい商品・サービスを作っている人との対話を繰り返していると見えてくるのが、「わかりやすくすること」「シンプルにすること」への抵抗感がとても強いということ。
 
わかりやすく表現することで、低俗なものに見えたり、意図したものと違う様に受け取られたりすることが生じるのではないかということを嫌う。
 
シンプルにすることで、自分たちのこだわりや想いが伝わらないのではないかと感じ、そこにもったいなさや恐れを抱く。
 


とてもとてもとてもわかる。
 


でも、”ビジネス”は「エゴorゴール」だとも思う。
 
エゴを通すことでゴールから遠ざかる。
 
ゴールに至ろうと思うとエゴを手放すところからスタートしなければならない。
 
”ビジネス”という文脈だけに限れば、多くの場合、エゴとゴールが矛盾する。
 
「自分がこだわってやりたいこと」と「売上が上がること」は全然違ったりする。
 
「なんでこんなモノがたくさん売れるんだ?」と思うことがすごく多いけれど、ビジネスの現場で成功しているのはまさにそういうものだという1つの事実は事実として受け入れる必要がある。
 
しょーもない情報商材や怪しいダイエットサプリみたいなものがよく売れるこの世界には辟易する。
 
辟易するけれど、事実はそうだということから議論を始める。
 
人を結果的に幸せにしない商品やサービスなんて駆逐されてほしいと思っているし、人のコンプレックスや感情を煽ってでもお金を稼ごうとする「売り方」も嫌いだけれど、それが結果を出しているということをまずは事実として受け入れる。


 
いま自分が絶対に大切にしたいのは、エゴとゴールが両立するポイントを考え抜いて見抜いて形にしていくこと。
 
人や社会のために、ある意味職人的にこだわって作り込んでいる人の想いをベースに、その想いが絶対に失われないことを前提に、最大限多くの人に、必要としている人に届けられるようにするにはどうするのがいいのかということを、毎日考えている。
 
このあたりは、全然自分の中でもやり方が確立できていなくて、日々模索しながらやっているけれど、自分がコンサルタントとして大切にしたいところ、立脚したいところがどこなのかは、絶対に守り抜いてやり遂げていく。

目に見えないものを追い求めるところに高い成果が訪れるのか?

経営にせよ、マーケティングにせよ、「改善」が今見えている要素にばかり集中してしまうのはなぜだろうか。

本当は、いま感知出来ていない要素の方に、より大きなドライバーが潜んでいるのかもしれない。

しかし、人は簡単に想定しうる要素をより適切な形にすることに意識を向けることが癖になっている。

「いま見えていないものの方に本質があるのかもしれない」と思い続けること、そして、「何が最も大きな影響を与える変数なのか」を考え続けることに意識を向ける。

そんなことを日々痛感しながら、コンサルタントとして仕事をしています。

 

 

「商品(サービス)の価値は高いのに、それが伝わらないのが課題です。」

 

そういってマーケティングの相談をしてくださる方がいます。

 

しかし、それは多くの場合間違いです。

 

人は、知覚できない価値は価値だと捉えません。

 

どれだけ頑張っても、その努力や工夫を見てくれない人にはその価値は伝えられないのです。

 

職人的に商品やサービスにこだわりをもっていたとしても、それが世の中の人にとって「自分の課題」を解決するものでなければ、決してお金はだしません。

 

「偉大なる専門家」である自分から見えている範囲で改善を繰り返しても、それがターゲットとしている顧客から見えていなければ、その点に価値を感じてお金を払ってくれる人はいません。

 

タクシーの運転手さんが「今日の気温に合わせて、最適な温度設定で空調を効かせよう」と心がけていても、伝えなければ当然伝わりませんね(伝えたとしてもお金が動くかは怪しいのは、そこに強いニーズがないと思われるからです)。

 

大切なのは、お客さんが知覚できる範囲内でサービスを構成しながら、かつ、お客さんにとって意味のある変化を起こすことです。

 

「そんな無茶な」と思うかもしれませんが、世の中で長続きしているサービスは、顧客がその価値を説明できるものばかりです。

 

そういった観点から、特に起業初心者の方にとっては、商品やサービスをブラッシュアップできるかどうかが極めて重要な要素になります。

 

 

この考え方は、「タイトルとは矛盾するのでは?」と思う方がいらっしゃるかもしれません。

 

問題は、本質の在り処がどこにあるかです。

 

マーケティングにおいて極めて重要なファクターは、「顧客が知覚できる範囲の価値を高めること」です。

 

しかし、多くの専門家的な方は、顧客が知覚できないレベルにまでこだわりをもってしまいます。

 

自己満足でビジネスをするならそれでもいいのですが、売り上げを適性に上げるには、「顧客が知覚できる範囲で価値を高めること」が大切です。

 

こういったことが「見えていない」方は、マーケティングの企画段階において、「自分にだけ見えているもの」にフォーカスをあててしまいます。

 

果たしてそれが、「顧客から見えているものかどうか」を今一度考えてみましょう。

 

NPOがイベント型から事業型へと移行するには?

NPO」という生き方


私は学生の頃から教育関係のNPOの事務局運営をはじめ、多くのNPOと言われる組織に向き合って来ました。


いまでも、教育関係者の支援事業を行う非営利型の一般社団法人アプラスで理事をしていますし、また、複数のNPOさんに顔を出させていただきながら、一緒に経営課題の解決に向き合うことに取り組んでいます。


その中で日々感じるのは


「いかにNPOで食べていくことが難しいか」


ということです。


元来、企業が利益を出せないと判断して扱わない領域かつ行政サービスでは対応しきれない社会課題に取り組むことをミッションとするNPOという組織。


企業が手をつけないということは、受益者負担の構造では収益確保が難しいということであり、行政が手をつけないということは、全体から見た優先順位としては課題のレベルが相対的に低いと判断されているということです。


従って、収益性も低く、社会的な共感性も放っておくと相対的に低いままになってしまう領域を対象にしています。




では、なぜそんなところで事業をしようという人間がいるかというと、本質的には


「『その人』にとっては優先順位が高い課題だから」


です。


「その人」とは、一義的にはNPOのサービスの対象になる人ですが、忘れてはいけないのは、事業者そのものにとってもその課題は見過ごすことの出来ない重大なものなのです。


誤解を恐れずいえば、ある側面においてNPOとは


「誰も扱ってくれなかった、私が感じた社会課題」


を解決する組織なのです。


「そんな独りよがりな事業が成り立つものか!」


と思われる方もいるでしょうし、それは事業性という観点からは正しいでしょう。


一方で、このような「ワタシ発」の課題意識で精力的に活動する人が増え、あちこちで小さなコミュニティが多様に生まれることによって、日本という極めて多様性が認められない社会に生きるためのスペースを見つけられる人が増えるということも間違いありません。


成熟しきった日本という社会で、人が自分を失わずに生きていくためには、NPOというあり方が増えていくことに価値があると私は考えています。




NPOの2つの類型


私がこれまで約8年ほど様々なNPOを見て来た経験からすると、大きく以下の2つの類型化が可能であると考えています。

NPOの2つの類型
✓ 価値観イベント型NPO
✓ 課題解決事業型NPO

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▲「課題解決事業型NPO」への移行には様々な課題が生じる


前提として、「私が感じた社会課題」を扱うことがNPO発足の動機として主要なものだと考えると、ほとんどのNPOは「価値観イベント型NPO」から経営をスタートすることになります。


自分たちが理想とする姿を単発的なイベントで表現し、収益性よりは価値観の純粋さ、短時間であれど求める社会の形が現れることを重視しています。


単発的なイベントで力をつけたNPOは、ネクストステージとして「NPOで食っていける」状態を目指し、リソースをフル活用しながら人が雇える状態を目指します(全てのNPOがそうではなく、その形態に留まることを選択することも多々あります)。
事業拡大に成功すると、以降は寄付と事業収益を2つの柱にしながら継続的な事業モデルを確立していきます。



「課題解決事業型NPO」への移行期に生じる2つの壁


課題解決型NPOへの移行期には、大きな2つの壁か立ちはだかります。


1つは、「事業化の壁」です。


NPOには、その取り組み内容に関する専門家は多数いますが、「事業経営」の勘所がわかる人材があまりいません。
いかに広報し、寄付を集め、企画の支援者を拡大していくべきか。


どのように利益を上げ、何に使っていくべきか。


こうした知見がない状態で経営を行うため、フルタイムスタッフの雇用は難しく、「単発のイベント収支を赤字にしない」というマインドでお金を扱います。


いかに経営やマーケティングのわかる人材を確保し、あるいはそうした観点の知識を蓄え、持続可能な事業体へと転身するかが1つ目の壁です。




2つ目の壁は、1つ目のそれよりも致命的かもしれません。


経営やマーケティングの人材は、できる人を協力者に組み入れることができればクリアできますし、企業を退職してフリーランスNPO職員へと働き方を変える人はこれから増える一方です。


2つ目の壁は、組織内部の価値観対立です。


「価値観イベント型」でやっているうちは、規模は小さくても価値観の純粋生の保たれた場を作ることができました。


しかし、事業化を進めると大切にすべき優先順位が変わり、事業者の価値観よりも顧客の価値観を理解し、そのニーズに応えることをしなければなりません。


ここで、内部の葛藤が生じます。


事業化を進めて経営の安定を志向する人間と、それまで取り組んできたことの価値観の優先順位が変わることで「本来の自分たちが大切にしてきたものが失われる」と感じ、抵抗する人とに分かれます。


「規模は小さくてもよいから本当にやりたいことをしたい」という派閥と「事業化をすすめ、人が雇える組織体にしたい」という派閥の価値観対立に陥ります。


徹底した話し合いが行われ、「私たちは何をする団体なのか」を問うことになり、ある場合はよいブレイクスルーに到達しますが、ある場合は信念対立の中で喧嘩別れのように人が離れて入れ替わりが生じます。


苦楽を共にしてきた草創期のメンバーとの別れは辛いものです。


こうした葛藤を幾度か繰り返し、事業化の波にのるNPOと諦めてしまうNPOとに分化し、より明確にこの2つの類型化が強化されます。

どうせ死ぬまで自分と付き合っていくのだから。

どうせ、死ぬまで自分と付き合っていくのだから、好きなことをたくさんやったらいい。
 
 
仕事も勉強も、18歳を超えたら「自分の特性は変わらない」ことを前提に戦い方を組んだ方が努力が継続し、結果に大きな差が出ると考えている。
 
できないことや苦手なことを改善することに取り組むよりも、自然体でストレスなくできることや得意なことを軸に据えて、選択と集中をもって取り組む方がいい。
 
基本的に、Why(価値観や思想、目的意識)のレベル嫌なことはしない。
What(内容)のレベルでどうしてもやらなくてはいけないのなら、より下位のHow(やり方)のレベルで自分が楽しめる工夫をすることに魂を使う。
 
効率的に目的を果たすという観点からはそうやって取り組むことを自分に約束する。
 
 
そして、学びを拡げ・深めていくべき期間においても、自分のやりたいこと・気になることを中心に学びに取り組み、そこから周辺領域に拡げる、そして、ときどき降ってわいたように全く違う領域に虫食い的に飛ぶ方が、効率的に幅広く学べると考えている。
 
モンテッソーリ教育でいう「敏感期」と「自己教育力」、そして心理学でいう「ゾーン」や「フロー」を最重要視する。
 
これは、How(方法論)のレベルの議論ではなく、最上位のWhy(思想)のレベルの話で、学ぶ際の根底にある考え方。
 
反対に、Whyのレベルで外的要因に動機をおく学びを大切にしている場合は、Howのレベルでこの考え方を取り入れてしまうと破綻してしまう恐れがある。
 
結構な可能性で。
 
WhyとHowの指示やメッセージがぶれていると、非言語コミュニケーションがじわじわと学習者に伝わり、学習者自身の信念や価値観が一貫しないものになってしまう。
 
 
結局、仕事も勉強も、周囲を気にせず好きなことに没頭するのが一番。