ウワノキカクのキカクメモ

Uwano Takao 広告会社でのストラテジックプランナーの経験を経て、2016年夏に独立。より人の心を動かし、多くの人に届くマーケティングコンセプトの企画と事業のコンサルティングを行う「ウワノキカク」にて事業を展開しています。傍ら、教育関係者の支援事業を行う一般社団法人コアプラスの理事を務める。人を想い、社会のための情熱で行動する人の思いを、事業として継続的に成り立つカタチに変えていくことをお手伝いしています。

NLPプラクティショナーコース修了

11/6(日)をもって、「NLP-JAPANラーニングセンター」のプラクティショナーコースを無事修了することができました。

 

 

退職する意思を固めた前後、起業独立の準備を始めたころに出会った「NLP」というテーマ。

  
マーケティング・コミュニケーションの領域での経験を活かし、最大限強みとして伸ばしていくため。
 
セールスマンとしてのコミュニケーションスキルを高めるため。
 
法人設立を実現し、会社の責任者としての振る舞いを身につけるため。
 
コンサルタントとしての課題解決能力を高めるため。
 
自身の課題に向き合い、乗り越えながらセルフイメージを高めるため。
 
人との信頼関係を築き、良好な人間関係を育むため。
 
いろいろな思惑、目的、課題意識を詰め込んで参加したこのプログラム。
 
多くのことを期待しすぎにも見えるかもしれませんが、それぞれについて、本当に沢山のことを学ぶことができました。
 
これほどまでに深い学びが得られる体験はこれまでになかったと言い切れる。
 
そんな学びの場でした。
 
 
●何が学びを生み出したのか
 
振り返ると、大きく3つの要素が自分にとっては大きなものだったと感じています。
 
 
①10日間を半年で学び続けるという体験設計
 
コースとしては、同じ中身を短期集中で学ぶものもありますが、おそらくこの半年かける学び方の方が成長が大きくなる。
 
コースでも繰り返し言われていましたが、「NLPは実践してなんぼ」の世界。
 
学んだことを日常で使い、フィードバックを得ながら次のステップに進める。
 
インプット・アウトプット・フィードバックの積み重ねが丁寧に行えるのがとてもよかったです。
 
違う側面から見ると、10日間で学ぶことはとても多いので、人間が達成できる成長速度にあったペースで学ぶということが必要で、これだけのものを短期集中で学んでも、いっときの高揚感のみ高まり、自分が受け取れる成長の速度を超えてしまう。
 
人間が得られる学びと習得のペースにあった期間設定だったのが、自分にとってはとても良かった。
 
 
②講師と参加者と場
 
僕が受けた回は講師の方が本当にプロ意識の高い、とても尊敬できる方でした。
 
最終日の懇親会の場で「私がいなくても学びが生まれる場を作ることを心がけている」という趣旨のことをおっしゃっていましたが、それがとても僕の心には刺さりました。
 
コンサルタントもカウンセラーもコーチもセミナー講師も、自己重要感を得るために相手を自分に依存させるスタイルを取る方もいますが、僕はそのやり方には反対で、いかにクライアントが自立して意思決定と学びの選択ができる機会を提供できるかを心がけています。
 
そして、それがとても難しいことを日々実感しています。
 
短期的に学びの高揚感を得させようと思ったら、自分の権威性を高め、徹底的に場の価値観を自分が上に立てるようにコントロールし、先生と生徒、上下の関係を作る方が、楽ですし、高い満足度を弾き出せます。
 
しかし、本当にクライアントが違いを生みだし、変化を得るためには、そんな短期的な麻薬のような刺激では意味がないと考えています。
 
「では、どういうやり方で…?」と模索していた中で、講師の方のやり方を10日間体験し、ご本人の大切にされていることを伺えたのは本当に何事にも代えられない学びの機会になりました。
 
そして何より、参加者の仲間たち。
 
最高でした。
 
学ぶ意欲の高さや学びをすぐに実践に活かす行動力と素直さのある方々でしたし、何よりみなさん人を大切にしたい気持ちの強い方でした。
 
だからこそ、本当の自分の課題に向き合う時のガイドとしても信頼できましたし、逆に、自分の課題に向き合いたくない時にもその気持ちを受け止めてもらえている感覚がありました。
 
そんな方々だったからこそ、試験の準備が不十分だったときも、気持ちが落ち込んでいた時でも、休むことなく参加し続けることができました。
 
「ステップ通りに学び続ける」ということがとても大切なプログラムでしたので、場の力に後押しされてそれを遂げられたのは本当によかったなあと思っています。
 
 
③変化の実感
 
NLPを学び続けると、日常の中で使えるコミュニケーションの視点が多く得られます。
 
その実践の場は、毎日の暮らしの中で常に存在しています。
 
ラポール形成のための技術や影響言語のトレーニングは、もう自分の中でどれだけやったかわからないくらい、多くの数を実践しています。
 
1日に数十回、下手したら3桁レベルで実践しています。
 
そして、こうして学びと実践を繰り返し続けた結果、日々自分の中で起きている変化を実感できるということが、さらに学びと実践のモチベーションになる。
 
このサイクルが半年間回り続けて、学びのシステムの中に身を置き続けることが出来たのが、非常に大きなポイントです。
 
この点は①や②とも深く繋がるところで、実践の期間が一定で与えられるからこそ変化の実感が得られますし、仲間の実践が聞けるからこそ自分の実践にも細かなところでチューニングがかけられます。
 
--------------------
 
こうした場に半年間身を置くことができ、すでに成長はある程度手にしているかもしれませんが、気持ちとしては今がスタート地点です。
 
今後も学び続けて変化を生み出し続けていきたいと思います。
 
とりあえず…10日間、頑張った、自分!笑
 
そして、プログラム参加者の皆さん、本当に本当にありがとうございました!!

どうせ死ぬまで自分と付き合っていくのだから。

どうせ、死ぬまで自分と付き合っていくのだから、好きなことをたくさんやったらいい。
 
 
仕事も勉強も、18歳を超えたら「自分の特性は変わらない」ことを前提に戦い方を組んだ方が努力が継続し、結果に大きな差が出ると考えている。
 
できないことや苦手なことを改善することに取り組むよりも、自然体でストレスなくできることや得意なことを軸に据えて、選択と集中をもって取り組む方がいい。
 
基本的に、Why(価値観や思想、目的意識)のレベル嫌なことはしない。
What(内容)のレベルでどうしてもやらなくてはいけないのなら、より下位のHow(やり方)のレベルで自分が楽しめる工夫をすることに魂を使う。
 
効率的に目的を果たすという観点からはそうやって取り組むことを自分に約束する。
 
 
そして、学びを拡げ・深めていくべき期間においても、自分のやりたいこと・気になることを中心に学びに取り組み、そこから周辺領域に拡げる、そして、ときどき降ってわいたように全く違う領域に虫食い的に飛ぶ方が、効率的に幅広く学べると考えている。
 
モンテッソーリ教育でいう「敏感期」と「自己教育力」、そして心理学でいう「ゾーン」や「フロー」を最重要視する。
 
これは、How(方法論)のレベルの議論ではなく、最上位のWhy(思想)のレベルの話で、学ぶ際の根底にある考え方。
 
反対に、Whyのレベルで外的要因に動機をおく学びを大切にしている場合は、Howのレベルでこの考え方を取り入れてしまうと破綻してしまう恐れがある。
 
結構な可能性で。
 
WhyとHowの指示やメッセージがぶれていると、非言語コミュニケーションがじわじわと学習者に伝わり、学習者自身の信念や価値観が一貫しないものになってしまう。
 
 
結局、仕事も勉強も、周囲を気にせず好きなことに没頭するのが一番。

協働を促すファシリテーターとしての教員像へ。

退職後、短期間でいろいろなことに首を突っ込んでやってきたけれど、やっぱり自分は教育現場にアプローチしたい人なのだと言うことがよくわかってきた。

 

特に気にしているのが、教員の労働環境に関する課題意識。  

 

ここが日本の教育においては非常に大きなボトルネックになっているように思えてならない。  

 

子どもの学力もメンタル面も、家庭環境における教育格差も、学校の現場がもっとクリエイティブな仕事が出来る場所になれば改善することが多いはず。  

 

そしてそれは、個々の教員の力量や働き方に焦点化される課題ではないし、一方で教育行政の制度的な問題でもないような気がしてきた(いや、後者は時代に合わせて変化させていくべきだけれど、それを待ってはいられないので、出来ることを考えようという姿勢としてそう思っているということですが)。  

 

学校の中にも多様な教育観と立場の教職員がいるし、学校を出たらましてその多様さはとてつもないことになる。  

 

先生という役割が、直接自分が教えることを通じて価値を発揮するのではなく、子どもに関する多様な関係者それぞれの価値観と立場を尊重しながら協働を促すファシリテーター・コーディネーター的な機能に価値の重点を移していくことは考えられないか。  

 

一日の中で一番その子と向き合っている時間が長いのは、親よりも先生だったりする時代。  

 

その先生が、子どもに必要なものを随時判断し、コーディネートしていくことができたら、学びや暮らしの質が変わっていくのではないかと思う。  

 

最近は塾で中学生3人に数学を教えていたりしますが、学びのフェーズが異なる3人を一斉に教えることの効率の悪さはとても強く実感していて、「この子は自習でどんどん進める」「この子には横に立って一緒に考えることをしてあげた方がいい」など、思うことが本当にたくさんある。  

 

「効果的に教える」ということだけを切り出したら、学校の先生も塾の先生も同じクラスのよくできる子も、実はそんなに本質的なところでの差は無いと思っています。  

 

同じクラスの勉強ができる子に教えてもらったほうが頭に入ってくる場合も多々あるじゃないですか。  

 

では、「学校の先生」特有のものはなんだろうと考えると、それは2つあって、「子どもに近い位置に長い時間一緒にいる」ということと、「集団生活の中での子どもを知っている」ということ。  

 

特に、子どもにどれだけ近くても、親は集団生活の中での子どもを日常的に見る立場にないので、子どもの将来的な社会生活を考えると、親と先生の連携は両輪で必須なはず。  

 

その立場を生かして、子どもに必要な学習環境をファシリテーターとして作っていくことができれば。  

 

そんなことを最近はぼんやりと考えています。  

 

では、具体的に事業として何をやるかというのは、いずれまた。  

 

とりとめもない話に付き合ってくださって、ありがとうございます。

誰が社会をつくるのか?

これまでは外的基準で行動できる人が社会を作ってきた。
 
学歴社会のヒエラルキーは、与えられた基準の中でいかに効率よくパフォーマンスを発揮させるかが鍵になっていた。
 
いまは、その基準でつくられた社会を土台に、いかに内的基準で行動し、個の価値観を社会に埋め込めるかが鍵になっている。
 
「お前は何がしたいんだ?」
「夢を持て」
 
そんなことを就職の時に言われるのも、個人の価値観、個人の内的基準を大切にした社会の在り方を投影している。
 
でも、それを社会の基準をなす企業や基準を作ってきた人が入っているという時点で、「埋め込まれた」ものでしかない。
 
結局は「それまでの基準をベースに一部修正を施すことでさらなる成長を実現しよう」という形でしかないのではないか。
 
そんなことを考えた上で、「じゃあ自分は何をするか」と問われたら、どう答えますか。
 
自分は何を基準に行動するか。
 
この問い自体がすでに詭弁に近いリードなのですが、基準は常に内側に、そしてその上で未来を予測しながら生きていくのがフリーのひとには必要な目だなあと思う朝でした。

目標を常に達成し圧倒的な成果を出すハイパフォーマーになるための前提と方法

今日はシェアハウスに一緒に住む仲間のぐらふと一緒に、家の近所の温泉に行ってきました。

 

連日の仕事と飲み会、家に帰れない毎日で満身創痍だったので、疲れを取りに温泉に。

 

 

 

湯に浸かりながら、人生について語り合う。

 

彼は笑顔で話を聞いてくれるので、どんどん僕は思っていることを吐き出していく。

 

自分がどの様な考えで生きているのか。

 

何を求めて会社を辞めたのか。

 

会社を辞めることを決めた後から今日に至るまでの間の短い期間ですら、目まぐるしく自分の考え方が変わっていっていること。

 

 

 

ぐらふに導かれるままに僕の口から出てきた、今の僕の中に明確にある「生きる・働くの前提になる考え方」の基礎は、「人間は、一人ひとりの能力に大きな差なんてないし、それぞれが出来ることも想像以上に限られている。」という、ある種の人間に対する諦めだった。

 

余談だが、こうした考え方を諦めだと感じるのは、以前の自分が過剰に人間に対して期待していたからかもしれない。

 

より正確に言えば、「自分は周りの人間よりもすごい」と思い込んでいたからだろう。

 

表向きでは謙虚に振る舞いながらも、ハラノソコでは、いい大学を出て、大きな会社に入って…という、わかりやすい「成功の道」(批判を込めて括弧書きにしています)を辿っていた自分に胡座をかき、周囲の人間を見下していたのかもしれない。

 

そんなことを、今日は感じた。

 

 

 

「人間は能力的にはみな違わない」「一人ひとりの人間にできることは非常に限られている」ということを前提にすると、説明できないような揺るぎない事実が立ち現れる。

 

それはスティーブ・ジョブズ孫正義柳井正イチロー石川遼などの様な『圧倒的なハイパフォーマー』とそれ以外の人間の違いは一体何か」という問い。

 

彼らと自分の比較したとき、そこには圧倒的な才能の違い、人間として持っている能力の差異があるような気がしてならない。

 

「ほら、人間、やっぱり持って生まれた才能だよ。」

 

「自分には同じことは何年かかっても絶対にできないし、人間の能力にはやっぱり大きな違いがあるんだ。」

 

そんな風に考えた方が合理的な現実を、私たちはいくらでも例をあげることができます。

 

それでも私が人間の圧倒的な能力の違いを否定するには、理由があります。

 

 

 

私は、ある人が圧倒的な結果を出せる理由は、「能力が高いから」ではなく、「勘所を押さえて行動し続けるから」ではないだろうかと考えています。

 

ポイントは「勘所を押さえる」と「行動し続ける」の2つ。

 

「勘所を押さえる」とは、テコの原理をもちいて小さな力で大きなものを動かすように、「小さな力で大きな変化を促す、最も効率の良いやり方を見つける」ということです。

 

身体のツボを刺激して、狙った不調を治すように。

 

構造を計算して爆弾を設置し、ビルを解体するように。

 

重要な箇所を押さえて、短時間の勉強で高い点数を出すように。

 

世の中には、「こうしたら変化を起こせる」という勘所を見抜くのが上手な人がいます。

 

もし仮に、「人間には能力の差がある」と言うとすれば、この勘所を見抜く力に差があるということでしょう。

 

しかし、この力も決して天賦の才ではありません。

 

起こしたい変化を見定め、その実現のために時間をかけて考え抜いた結果に得られる「発見」なのです。

 

時間と経験の積み重ねによって「見えるようになるもの」です。

 

 

 

そこで2つめのポイントである「行動し続ける」が出てきます。

 

定めた目標、起こしたい変化のために、人に聞いたり、関連する本を読み漁ったり、自分なりに考え、その内容を人にあててフィードバックをもらったり、実際にやってみて反応を見たり…。

 

1つの目的のために行動し続けること。

 

それによって、変化を起こすために最も効率の良いポイントが見えてきます。

 

そして、どれだけ効率のよいポイントであろうと、1度叩いたくらいでは変化はおきません

 

何度も何度も、あきらめることなく、叩き続けることで変化を起こすのです。

 

1989年11月9日。

 

世界を二分する社会思想である資本主義と社会主義の対立を象徴する「ベルリンの壁」が崩壊した日。

 

これが大きな引き金になり、社会主義が崩壊し、資本主義が世界を支配する時代に入った。

 

「壁を打ち破る」という目標のもとに、壁をたたき続けた人たちがいた。

 

その時壁を叩いていた人たちが自覚していた目的は、ただただ物理的な障壁としての壁を打ち破ることだったかもしれない。

 

しかし、その人の無意識の中には「この壁を打ち破ることで、世界を変えてやる」という目的意識があったのかもしれません。

 

その目的に対する思いの強さと「どうすれば社会を変えられるか」と思い悩み続けた人々の蓄積が、あの変化を現実のものにしたのです。

 

 

 

目的を定めて思考と行動を積み重ね続け、変化を実現するための勘所を把握し、一点突破で叩き続けて、壁を打ち破る

 

これが、高いパフォーマンスを出している人がやっていることです。

 

そう考えれば、大切なことは大きな力で壁を叩ける能力ではないことは明らかです。

 

狙いを定めて行動を積み重ね続ける

 

これが、本当に必要なこと。

 

高い能力ではなく、目的のために一点突破で行動し続けることができるかどうかが、結果に関する大きな差を生じさせます。

 

 

 

そして、一人ひとりの人間にできることは、非常に限られています。

 

自分が思っている以上に、自分にはできないことがたくさんある。

 

そう謙虚に捉えれば、限られたエネルギーを1つの目的の達成のためだけに集中させられるかどうかが鍵になります。

 

これが、選択と集中」の本質です。

 

仮に人間に10000のエネルギーがあれば、いろいろなことに手を出してもそれぞれで結果が出せるかもしれません。

 

しかし、実際は10しかエネルギーがないのであれば、その全てを1つの目的のために注いだ人とそうでない人とでは、圧倒的な差が生まれるのは明らかです。

 

「ハイパフォーマー」と言われる人は、果たしたい目的が明確で、エネルギーのすべてをその実現に注ぎ、かつ、それに向かって行動を継続します。

 

それによって積み重ねて来た量が普通の人とは大きくことなるから、大きな成果が出せるのです。

 

 

 

一方、そうした人は、プライベートが崩壊しているということをよく言われたりもしています。

 

地位やお金はあるけれど家庭が崩壊しているということは、よく耳にするところです。

 

そうならないための目標設定の仕方は別の機会に触れますが、仕事だけにすべてのエネルギーを注いでしまうことには、代償がつきまといます。

 

多くの人は、その代償を避けるために、複数のものをバランスよく一定程度実現する分散投資の道を選びます

 

だから、1つの圧倒的な結果を生み出すことはありませんが、それなりにバランスのよい生活の中で幸せを実現することができます

 

 

 

このように、「人間は能力的にはみな違わない」「一人ひとりの人間にできることは非常に限られている」ということを前提に物事を考えると、大きな成果をあげるための仕組みは非常にシンプルだということが説明できますし、また、「本質的なところではその生き方を求めていないから大きな成果を出すことをしない」という判断を無意識でしていることもわかります。

 

こうした前提に立った上で、自分の幸せや生き方、行動の仕方を検討していくことが重要ではないだろうか。

 

そんなことを考えた、9月1日の温泉談義でした。