読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ウワノキカクのキカクメモ

Uwano Takao 広告会社でのストラテジックプランナーの経験を経て、2016年夏に独立。より人の心を動かし、多くの人に届くマーケティングコンセプトの企画と事業のコンサルティングを行う「ウワノキカク」にて事業を展開しています。傍ら、教育関係者の支援事業を行う一般社団法人コアプラスの理事を務める。人を想い、社会のための情熱で行動する人の思いを、事業として継続的に成り立つカタチに変えていくことをお手伝いしています。

投影と自尊感情がSNSへの苦手意識を生む

先日、facebookでこんな記事が流れてきました。
 
lite.blogos.com

 


ここで言われていることについて思うのは…

①全てのエッセイは自慢であるという井上ひさし氏の指摘は至言で、上記の文章もまさに「世の中の事象をこんな風にうまく捉えることが私にはできますよ」という自慢に他ならない。
 

SNSの投稿を自慢であると捉えることは誤っていない。
多かれ少なかれ「良い体験や気づきを得たから共有したい」という気持ちには自慢も含まれているといえるだろう。

 
③ただし、過度に「自慢だ」と感じ、自分が投稿すらできなくなってしまう心理には、投影と低い自尊感情が読み取れる。
「仕事で自慢ばかりしている自分を、SNSの投稿で特定少数の人に知られることは、『あの人はまた自慢している』と揶揄される機会を生むだけではないか」と感じているのだと思うが、それは自分の認知フレームが生むバイアスの投影であり、知られることを恐れる自尊感情の低さの現れである。

 
 
「恥の感情なんかすててSNSやろうぜ!」と言いたいわけではありません。


勿論、著者の方のメンタリティを批判したいわけでもありません(多かれ少なかれみんな一緒だと思っています)。




言いたいことは、「やっぱり日本人は過度な投影と低い自尊感情に悩まされているんだなあ」と再確認したということ。


「こんなことしたら(言ったら)こんなふうに思われてしまうのではないか?」


という思い込みの認知がある限り、「横並び」の社会の在り方は変わらないだろう。


こうした認知をより生きやすい方向に、事業活動を通じて少しずつ変えていくということを、進めていく。

対話と可視化の可能性

先日、一般社団法人アプラス×森分志学さんの主催で、「Education Road」の第2回を実施しました。
https://www.facebook.com/events/154767148362216/
 
この対話イベントは、「教育」をテーマに働きたいと考えている若者を対象に、「学校の先生以外にも『教育』に携わる道(=Education Road)はあるんだぞ!」ということをリアルに知ってもらうことを趣旨としています。
 
「教育に関わる=学校の先生」という思い込みを実感のレベルで打破することを目指しています。
 
 
 
イベントのしつらえとしては
 
① 3名のゲストのパネルトーク
② ゲスト・参加者でのグループトーク
 
という構成でやっていて、今回のゲストは某私立高校の先生と、学生が海外でPBLを通じて学ぶ場を提供している経営者と上野が前に立ちました。
 
教育者としても人間としても本当に魅力的なお2人で、非常に充実した場になりました。
 
この場を使って改めて感謝申し上げます。
 
 
 
実際に場を開いてみて、この機会で改めて「対話と可視化の可能性」を感じました。
 
僕は対話というのは考えることを促すための強烈な手法だと思っているのですが、「考える」とは言い換えれば「自問自答する」ということだと考えています。
 
自分で問いを持ち、自分で答えを出す。
 
その上で最も重要なのは、「いかに良質な問いに出会うか」だと思っています。
 
良質な問いとは、他人から与えられるのではなく、自分の内側から湧き上がってくる、自分にとってリアリティのある問いのこと。
 
例えば、「教育には~が重要だ」「子どもの成長には~が必要だ」と誰かが言っているのを鵜呑みにした問いではなく、
 
「あー、確かにそれはマズイな!」とか
 
「それは絶対に当時の自分だったら嫌だ!」とか
 
自分の感情や過去の体験と強く結びつく、自分にとってそのシーンが臨場感をもって立ち現れる様な問いのことをいいます。
 
もし、そうした問いに出会わないと、その場では話が盛り上がっても実際にその後の行動に繋がらなかったりもしますし、安直な答えに満足して深く考えないということが起こってしまいます。
 
本当に重要な答えに出会うためには、「いかにリアルな問いに出会うか」が重要だと思っていて、その探究のためにこのイベントを試行錯誤してやっています。
 
 
 
ちなみに、今回のイベントではどういった仕掛けを意識していたかというと…
 
 
1つめは、「目の前に、問いを生み出す具体的な人が存在している」ということを意識しています。
 
今回は3名のゲストをお招きして、それぞれが人生で体験してきたことを伺いながら
 
「なぜこの人はこんなことをしているのだろう?」
 
「どうしてそういう風に考えるのだろう?」
 
といったことを考えていたのですが、ゲストが目の前にいることで、そうした問いが避けられない強さをもったものとして立ち現れます。
 
更には、他の参加者の方の話を聞くことを通じて、
 
「なぜこの人はそこにこだわるのだろう?」
 
「本当にそれは教育においていいことなのだろうか?」
 
といった問いが、人の存在と相まって強烈に自分に働きかけてきます(それが快適な問いでないこともしばしばあります)。
 
人の存在という大きな力と、対話の中で生まれてくる問いとをいかに紐付けるかということにチャレンジしています。
  
  
 
2つめとして、今回はさよちゃんにお願いして、対話の場をリアリタイムに可視化するグラフィックレコードの取り組みをしました。
 
対話の内容が可視化されることで、過去の話が時間を超えて絵として残り、よりリアルな問いが生まれることを狙っています。
 
というのも、人は、自分たちが話したことであっても、その時に自分が重要だと思わなければどんどん人は忘れていきますし、メモを取ったとしても時間がたつと意味がわからなくなっていたりします。
 
流れやすく、移ろいやすい人の関心や記憶に対して、1つの違った視点をいれて記録し、絵として可視化することで、ただの文字情報以上のものを伝えてくれる。
 
それが、知識の盲点になっている要素や違った捉え方をしている箇所に気づくことを促し、更なる自分の問いが、強さをもって自分の中に生まれくる、ということをいかに生み出せるだろうかと考えていました。
 
 
 
そして、3つめ、大前提として、自分の価値観や認識のフレームを揺さぶる種類の問いをいかに生み出すかということを考えていました。
 
特にこのイベントでは、ゲストの現在の立場や過去の体験といったわかりやすいレベルで異なるタイプの人をお招きすることに命をかけています。
 
もちろん、その人自身の魅力もあるのですが、全く違う経験をしながら地に足の着いた対話が生まれるようにするには、どのように企画し当日振る舞うべきかは結構神経を使います。
 
「どういうテーマを投げかければこの人の独自性が姿を表わすだろうか」
 
「今日の参加者にとって最も感情を揺さぶる問いは何だろうか」
 
というようなことを、リアルタイムで判断しながら探り探り話を作っていくのが、とても楽しく、難しい。
 
いかに、その場の価値観や認識のフレームを捉えて活用できるかに神経を集中していました。
 
 
 
こうした3つの仕掛け(心がけ?)を懐にたずさえ、「Education Road」では対話の場づくりを行いました。
 
狙いはあくまで「教育に関わる=学校の先生」という思い込みを実感のレベルで打破するということだったと思うと、今回に限って言えば、成功したところとそうでないところがすべての仕掛けに関してあったなあと思っています。
 
1つめの「人の存在」は、立ち現れる問いと人の存在をいかに認知のレベルで紐付けるかは、短い時間ではラベリングやストーリーテリングをもっと精緻にやる必要があるという反省があります。
 
過去の体験や現在の役割を紹介することはもちろんですが、①ゲストトークで立ち現れた個性や価値観をその場で言語化してラベリングして場に共有することがもっとできたのではないかと思っています。
 
逆に、②のグループトークで距離が近い所、息遣いが感じられる距離で話すことはやっぱりパワーがあるなと感じたので、今後も山場として機能させられるように継続していきたいです。
 
 
 
2つめの「グラフィックレコード」に関しては、いかに対話の中で活用していくかがとても大切だということを改めて感じました。
 
もちろん、存在しているだけで人はちらちら見ているし、それに基づいて問いを持っているけれど、より活用するためには、参加者全体の立脚点としてのレコードがあるということを共通認識にしておく必要がありました。
 
いやらしくない、強制的でないカタチでこの共通認識をつくることができれば更に促進するフィールドになってくれそうなので、ファシリテーターの振る舞いとの連携など、具体的な活用方法を研究しなければなりません。
 
 
 
3つめの「価値観やフレームレベルでのゆさぶり」に関しては、そもそもその人のもっている認識がどうかということと強く相関しているものの、ゲストの話の仕方によってかなり広範な人にアプローチできることがわかってきました。
 
以前は「結局は参加者の人の内側に触れてみないとわからない」「現場判断でファシるしかない」「ゲストトークはあくまで刺激」と考えていましたが、今回やってみて「ゲストの価値観が振れた瞬間を見せること」と「そのゲストがそれでもなお抱いている問い(と前提)」の両方を見せることで、立場や価値観が多様な人が反応していることが感じられました。
 
人が自分の価値観やフレームに出会うための機会を、いかに短い時間で生み出せるか、これは学生の頃からこだわってきましたが、今後も引き続き考え続けるテーマだなあと思っています。
 
イベント1つに関しても、主催する側にもいろいろな気付きや学びがあって、その経験と反省の上にどんどん新しい場をつくり続けていきたいと思っています。
 
 
 
目指すのは、物理的にも心理的にも強制のない自由な社会をつくること。
 
そのために、「どうすれば、人が内発的なエネルギーで動きながらも社会に良い循環が生まれ続けるか」という課題に向き合っています。
 
他者からの強制が働き、それに従属しなればならないのは、それが一時的にでも合理性や効率の良さをもっているから。
 
では、強制がない方が社会全体としても組織としても個人としても合理的であるということが共有されるには、どうしたらよいのだろうか。
 
「楽しかったし、それでいいじゃん!」
 
みたいな立場も勿論ありますし、「楽しさ」という感情が生まれているときには「驚き」が生じているので、変化を生み出す本質は捉えていると思うものの、やっぱり自分は、社会にアプローチする機会も限られているのだから、一回一回に細かな狙いとこだわりをもってやっていきたいです。
 
長々と書いていますが、いろいろな学問領域・研究領域の知見と人間的な経験をベースに、いかに人や社会に狙った変化を生み出していくことはこれからも続けて行きますので、一緒にやってくれるかた、ぜひこれからもよろしくお願い致します。
 
コンサルティングコーチングもファシリテーションもプランニングも、人に働きかけるのも組織に働きかけるのも社会に働きかけるのも、全てに通ずる本質があると信じて。
 
そしてその本質を使いこなすことを目指して、これからも試行錯誤を繰り返していきます。

f:id:amsoat:20170327010539j:imagef:id:amsoat:20170327010614j:imagef:id:amsoat:20170327010626j:image

何のために知識を増やす学びを行うのか?

Q.何のために知識を増やす学びを行うのか?
 
 
A.「主体性」を取り戻すため。

 

「知識」は人を幸せにしない

知識を増やすことは、それ自体に良いも悪いもないと思っていて、知識魔神のような人の中には、とても幸福そうな人からとても不幸そうな人まで、かなりのバリエーションがあるように見受けられます。
 
つまり、知識を増やすことそれ自体は、幸せな人生とは直接に因果関係や相関関係を持たないと思っています。
 
 

それでもなお日々新しい知識を取り入れるのは、知識を取り入れることによって、自分の人生を主体的に意思決定できる領域が拡大していくと信じているから。
 
そもそも、人間の脳は環境のすべてを情報処理しているわけではなく、かなり恣意的に情報の取捨選択、カテゴライズ、意味付けをしています。
 
友人と一緒に映画を観ても全く違う感想をもち、全く違う点に気づいているのも、2人の脳では違う情報処理がなされているから。
 
いまでも覚えていますが、『ハリーポッターと賢者の石』を読んだときに、自分は「ハリーはあんなに大きな決断ができるハリーはすばらしい!」と感じましたが、ある友人は「多少嫌なところがあるとは言え、あんな形でお世話になった家から飛び出すのはちょっと信じられない」と言っていたのは印象的でした。
 
こうした違いが生じるのも、まさに見えているものが違い、それをどう意味づけるかというシステムが異なっていたからです。
 
 
 
 

認知の情報処理システムはどう作られるのか

情報処理のシステムは、その瞬間の脳のコンディションで決まります。
 
1つは、それまでに得た経験を統合し、「こういうときはこう反応する」という仕組みが形成されていて、それに従って処理されるということ。
 
いつも自分を褒めてくれる先生を見れば、とても満たされた嬉しい気持ちになったりするのは、「その先生=いいもの」という認知が過去の経験で形成されているから。
 
もう1つは、その時の感情的な状態で、GoodなテンションのときはものごとがすべからくGoodに見え、BadなテンションのときにはBadに見えてしまうということ。
 
幸福度や不幸度(という言い方はしないか)は正のフィードバックループを描き、幸福な人には更なる幸福が、不幸な人には更なる不幸が舞い込んでくるのもこういうことですね。
 
いずれにせよ、脳の認知は「過去」と「現在」が形成します。
 ※実は、この文脈で「未来」がかなり重要な要素であるという話もありますが、ここでは一旦は横においておきます。
 
 

人間が「過去」と「現在」で認知を形成しているということは、言い換えれば、かなり意識的に情報獲得や経験をしないと、無意識的に他者に自分の人生を統御されてしまうということになります。
 
他者に与えられた情報を鵜呑みにし、他者に感情的な体験を強く植え付けられてしまうと、それを土台にしながら自分の認知のシステムを他者に作られてしまうということに繋がります。
 
そうなると「あれ、自分って本当にそんなこと思ってたんだっけ?」「自分で選んだ気がするけれど、本当はあまりこういうのは好きじゃないかもしれないな…」といったことが生じてきます。
 
その違和感は無意識が自分にアラートを鳴らしてくれているということなので決して無碍にしてはいけない感覚だと思っています。
 
どこか、主体的に物事を判断できていないときに内側から生まれてくる大切な「声」です。
 
 
 
 

「知識」は私たちに何をもたらしてくれるのか

しかし、自分の過去の体験を変えることは人間にはできませんので、どうすれば本当の意味で主体的に人生を意思決定できる状態に近づけるのでしょうか?
 
その助けとなるのが「知識」です。
 
知識情報は、自分の脳にある認知を形成する概念的なベースになるので、既に獲得されている知識に基づいてすべての認知のシステムが作られています。
 
勿論それは、「知っていることしか見えない」ということではなく、むしろ「知っていることで知らないものが見える」ということです(→「無知の知」)。
 
脳内の情報処理のシステムが書き換わっていくための1つの重要な要素は、脳に新しい情報を取り込み、自分の認知や情動の在り方、意味付けを変えていくことをするということになります。
 
 

そこで気になるのが、「知識って、結局は誰かが既に形式化したものでしょ?ということは、結局それも含めて他者にコントロールされるということでしかないんじゃない?」という問いが生まれるところです。
 
確かに、知識としてアクセスできる情報の99.99999…%は他者が既に加工した情報です。
 
しかし、より大切なのは「知識を組み合わせてどのような認知構造を作るか」というところです。
 
2人の人間がそれぞれ全く同じ100の情報をもっていたとしても、それらの組み合わせとして生み出される情報処理の在り方が同じであるわけではありません。
 
過去に入ってきた順番や体験に紐づく意味付けの重さなどによって、全く違う認知のシステムを作り上げます。
 
そこに、自分の独自性と主体性が生まれる余地があります。
 
なるべく他者がパッケージ化した情報を排除し、オリジナルな組み合わせを作り、物事の見方を変えていく。
 
そうした営みの先に、主体的な自己決定に向けた選択のベースが作られていきます。
 
 

「知識」の有効活用には組み合わせのオリジナリティが必要

こうした理解を前提に考えれば、新しい知識の獲得という学びには「現状より幾ばくかでも主体的に意思決定できる余地を拡大する」という意義が見いだせます。
 
ではなぜ知識魔神が必ず幸福ではないかというと、そこには「自分がどうなりたいのか」という未来に向けた意思決定がなされていないから、たくさんの知識の意味づけをすべて外部化し、主体的な意思決定ができない状態を維持してしまっているからです。
 
大切なのは、情報の組み合わせのオリジナリティを確立することです。
 


そのオリジナリティを作るために必要なことが2つあります。
 
1つは、ときどきランダムな情報獲得の機会を設けておくこと。
 
2つめは、「未来」に明確なゴールを設定すること。
 
自分の興味関心の先にあること「だけ」を学んでいると、そこにはその情報獲得のプロセスも既に誰かが敷いたレールの上であることも多々あります。
 
そうならないためには、ときどきでかまわないので、全く関心のない情報にもオープンな状態を作り、しっかりとその情報を取り込む努力がとても有効です。
 
そして更に、先ほど横においておいた「未来」を自分の意思で措定し、そこからのフィードバックを得ながら情報の組み合わせの在り方を再検討することが重要です。
 
だからこそ、私たちは「ゴール」というものを設定します。
 
 
 
「ゴールの設定」というテーマはまた改めて扱うとして、「知識を獲得する」という営みが究極的に目指すものが何であるのかを理解しておくことで、知識を獲得することの意義にリアリティが持てますし、更には知識魔神になること自体には意味がないということも判断できます。
 
いま自分に必要な学びを選択するためにも、ぜひ参考になればと思います。
 

人と社会の幸福を考える「デンマーク教育視察ツアー」実施メモ①│対立を扱うデモクラシーの国

2/24(金)~3/3(金)の約1週間、一般社団法人アプラス主催の「デンマーク教育視察ツアー」を実施してきました。
 
======================
●コアプラス主催「デンマーク教育視察ツアー」
http://coretour-danmark.strikingly.com/
一般社団法人アプラス Facebookページ
https://www.facebook.com/coreplus07/
======================
 
デンマークは「デモクラシーの国」と国民が自ら言うほど、民主主義を重んじている国。
 
そして、国連の世界幸福度調査で1位を叩き出す、国民の幸福度が高い国。
 
デンマークを訪問したことで見えてきたことを、しばらくはメモしていきたいと思います。
 
 
 
* * *
 
 

「私は政府を信頼している。」
 
「政府の考えと自分の考えは一致している。」
 
こんなことを真顔でさも当然だろうという態度で言えてしまうデンマーク人たち。
 
 
 
あの国では
 
①意見の対立は人格の否定ではない(≒人間はみな異なる)
②言論が政治の主たる競争要因である(≒「運営能力」の競争ではない)
 
といった、民主主義の大原則が当然のように機能していた。
 
反対に、日本ではこうした原則がほぼ機能していない。
 
 
 
デンマークと日本の一番の違いとして実感したのは、「対立を扱う」ということに対する考え方・感じ方の違い。
 
日本においては、その人の意見を否定するとその人自身を否定するものだと感じてしまったり(逆も然り)、「和を以て貴しとなす」の精神で、存在している対立を顕在化させないことでコミュニティを維持していたりする。
 
日本人は、「対立」に関する強烈な恐れがあるということを、比較対象となる国を見ることでとても強く実感した。
 
 
 
では、デンマーク人が「対立を扱う」ことに長けているのはなぜなのか。
 
視察でその秘訣はたくさん見えてきましたが、それはまた次の機会に。

コンサルタントとしてのプライド。中小企業・NPOのビジネスやマーケティングのポイントを探る。

いい商品・サービスを作っている人との対話を繰り返していると見えてくるのが、「わかりやすくすること」「シンプルにすること」への抵抗感がとても強いということ。
 
わかりやすく表現することで、低俗なものに見えたり、意図したものと違う様に受け取られたりすることが生じるのではないかということを嫌う。
 
シンプルにすることで、自分たちのこだわりや想いが伝わらないのではないかと感じ、そこにもったいなさや恐れを抱く。
 


とてもとてもとてもわかる。
 


でも、”ビジネス”は「エゴorゴール」だとも思う。
 
エゴを通すことでゴールから遠ざかる。
 
ゴールに至ろうと思うとエゴを手放すところからスタートしなければならない。
 
”ビジネス”という文脈だけに限れば、多くの場合、エゴとゴールが矛盾する。
 
「自分がこだわってやりたいこと」と「売上が上がること」は全然違ったりする。
 
「なんでこんなモノがたくさん売れるんだ?」と思うことがすごく多いけれど、ビジネスの現場で成功しているのはまさにそういうものだという1つの事実は事実として受け入れる必要がある。
 
しょーもない情報商材や怪しいダイエットサプリみたいなものがよく売れるこの世界には辟易する。
 
辟易するけれど、事実はそうだということから議論を始める。
 
人を結果的に幸せにしない商品やサービスなんて駆逐されてほしいと思っているし、人のコンプレックスや感情を煽ってでもお金を稼ごうとする「売り方」も嫌いだけれど、それが結果を出しているということをまずは事実として受け入れる。


 
いま自分が絶対に大切にしたいのは、エゴとゴールが両立するポイントを考え抜いて見抜いて形にしていくこと。
 
人や社会のために、ある意味職人的にこだわって作り込んでいる人の想いをベースに、その想いが絶対に失われないことを前提に、最大限多くの人に、必要としている人に届けられるようにするにはどうするのがいいのかということを、毎日考えている。
 
このあたりは、全然自分の中でもやり方が確立できていなくて、日々模索しながらやっているけれど、自分がコンサルタントとして大切にしたいところ、立脚したいところがどこなのかは、絶対に守り抜いてやり遂げていく。