ウワノキカクのキカクメモ

Uwano Takao 広告会社でのストラテジックプランナーの経験を経て、2016年夏に独立。より人の心を動かし、多くの人に届くマーケティングコンセプトの企画と事業のコンサルティングを行う「ウワノキカク」にて事業を展開しています。傍ら、教育関係者の支援事業を行う一般社団法人コアプラスの理事を務める。人を想い、社会のための情熱で行動する人の思いを、事業として継続的に成り立つカタチに変えていくことをお手伝いしています。

「問題解決」の一般的なプロセスについての考察

私の趣味でありライフワークである「問題解決」ですが、その時の思考や動作について、一般的・普遍的なプロセスを作り上げることに最近は取り組んでいます。
2018年はそれを完成させることが目標です。
 
さて、そのプロセスを考える上で最近良かったのが、先日投稿した以下の「天使と悪魔」の問題です。

t-uwano.hateblo.jp

 
「天使と悪魔」自体は、論理学の正解ではとても有名な命題で、この設定を使った派生問題はたくさんありますが、今回出したものはそれらの中でも時間をかけて取り組むに値する良問です。
 
今回は、その問題を使いながら「問題解決」の一般的なプロセスについての考察を書いていきます。
 

 

1「問題解決」とは?-よくある誤解への提言

そもそも、「問題解決」って何でしょうか。
 
ある同じ事象をみても、ある人はそれを「問題だ!」といい、ある人は「普通のことじゃん」といい、更にある人は「むしろいいことじゃない?」という。
これは価値観の多様化が進み続ける現代では、もはや当たり前にあちこちで起きていることですよね。
 
この観察された事実に基づいて考えるに、「問題」とは、その人の認識や価値観、捉え方によって、現れたり、消えたり、大きなものになったり、小さなものになったりするものだと言えそうです。
一体なぜ、そんなことが起きるのでしょうか?
 

先に答えを言ってしまうと、あることが問題であるか否かは、「解決の困難さの認識」によって決まります。
 
例えば、「社長に新商品のコンセプトのプレゼンをする」ということに直面した場合を考えてみます。
 
ある忙しい開発課長は、「今回の新商品には技術的に致命的な課題が残っている」と思っています。
時間をかけて取り組めばなんとかなるかもしれないが、他にもやることがたくさんあって忙しいいま、このプレゼンを成功させられるかはとても不安で、大きな問題だと感じています。
 
一方、ある辣腕な事業部長は、今回の新商品に自信を持っていて「これなら社長もYesというはずだ」と思っていたとします。
確かに技術的な課題はあるが、それは社長のお墨付きを取ってから優秀な人財を集めてチームを組み、集中させればなんとかなると予想しています。
そういう人ならば、このプレゼンをすることは全く問題ではありません。
むしろ、この機会に自分の能力を示すことによって、更なるチャンスが舞い込んでくると思っているかもしれません。
 
同じ事象でも、その人の能力や状態、認識、価値観、思い込みによって、問題であると感じられたり、「それは問題ではない」と思ったりします。
これが、「問題」を考える上での重要なポイントです。
 

「問題解決」というと、先に「問題」という客観的な事象があり、それを解決していく営みであると誤解されることがあります。
 
しかし、「問題」というのは、先験的に存在しているものではありません。
 
「今年は昨年に比べて利益率が1%低下した」というとき、それが「問題」であるかどうかは、誰が語るかによるのです。
「今年は昨年よりも利益率が上がるだろう」と思っていた人にしてみれば「問題」かもしれませんが、「今年は昨年よりも3%くらい利益率が落ちるかもしれない」と予想していた人にとってはむしろ望ましい状態です。
 
すなわち、問題解決における「問題」とは、それ自体が先に存在しているのではなく、ある人の認識によって存在したりしなかったりするものです。
そして、その「解決の困難さの認識」によって、大きな問題なのか、取るに足らない問題なのかが変わってきます。
「問題は人の認識が作り出している」と言われるのも、このためです。
 
ちなみに、企業の問題解決の現場においては、往々にしてこの問題の認識が人によって全くばらばらであることがほとんどです。
コンサルタントの役割は、「何が、なぜ問題なのか」をまずはクライアントの経営陣に共通認識として合意していただくところからスタートします。



 

2「問題解決」の1歩目 -「問題設定」

この認識を前提にしたときに、「では、それが問題を解く上でどう役に立つのか?」を考えていきます。
 

まず、1歩目として、この認識は「問題をどう読み解くか」、つまり「問題設定」に役立ちます。
 
「え、もう既に問題は設問として設定されているでしょ?」と思われるかもしれませんが、ちょっと待ってください。
示された設問は、あくまでゴールの状態でしかありません。
設問で言っているのは、「~という条件のときに、…できます(具体的なやり方は自分で考えてね)」ということです。
つまり、そこには問題解決に取り組む人、この場合はあなたや私の認識が入っていません。
例えば、過去にこの問題に取り組んだ経験があり、知識として正解をすでに持っている人にとっては、この設問は問題にはなりえませんし、この手の問題を苦手とする人にとっては、とても大きな難しい問題かもしれません。
 
まず最初にやらなけれはならないのは、設問を自分がどう認識するか、自分にとって何が問題であるかを整理すること。
つまり、「問題設定」です。


では、今回の設問において「私は」どの様な「問題を設定」するでしょうか。
 
「問題設定」の方法はシンプルで、「『あるべき姿』と『自分が普通にやったらどうなるか』のギャップを考える」です。
 
「あるべき姿」は、設問の中に明記されています。
「①~④の条件のときに、『確実に正解の扉を選び出すための質問』を見つけ出せている状態」です。
 
では、それに対して「自分が普通にやったらどうなるか」を検証してみましょう。
ここからは人によって前提や知識が違うので大きく変わってきますが、以下には私の場合の例を記載します。
 

これは「天使と悪魔」の発展問題だ。
妖精に「あなたは天使ですか?」と質問すると、天使も悪魔もYesと答えて判断がつかないところに面白みがある、古典的な論理パズルである。
 
この手の問題の定石として、「妖精に客観的な事実を聞けば、その回答によって天使と悪魔を見分けられる」というものがある。
例えば、「私は人間ですか?」と問えば、天使はYesと答え、悪魔はNoと答えるので、そのYes/Noで天使か悪魔かを判断できる。
 
今回の設問でも、一度この質問をして妖精ABのどちらかについて天使と悪魔の特定を行い、その上で「赤い扉は正解ですか?」と聞けば、答えは導ける。
 
しかし、質問のチャンスは1回。
「普通にやれば」2回の質問で答えが出せるが、今回は1回で判断しなければならない。

 
 
前提となる知識があったということもあり、「天使と悪魔」を知らなかった人に比べると、私はだいぶ前に進んでいたかもしれません。
これぞまさに、「問題は人の認識が作り出している」ということの実態です。

 
繰り返します。
 
問題を解くための第一歩は、「自分が普通にやったらどうなるか」を考え、ゴールとのギャップから、自分にとっての「問題設定」を行うことです。
 
私の場合は、「『扉の正解不正解の判断』をするためには、先に『天使か悪魔かの判断』をする必要があり、合計2回の質問しなければいけないところ、何とかして1回で判断できる方法を見つける」というのが設定された問題です。
 
普通にやれば、2回質問しなければできない。
しかし、設問は1回でできると言っている。
どういうことだろうか?
 
これが、「私にとっての問題」つまり「問題設定」です。
 
設問の長い文章と比べると、だいぶ具体的で、かつ、解決のための方向性も明確な問いなりました。
この「問題設定」が自分の言葉でできるかどうかが、問題解決の非常に重要な1歩目です。



 

3「思い込み」を明らかにする

問題を自分の言葉で設定できたら、次にやるべきことは「自分の『思い込み』を明らかにする」ということです。
私が上記で設定した問題にも、たくさんの「思い込み」があります。
 
「思い込み」の見つけ方もシンプルです。
設定した問題の中の「普通にやるとどうなるか」の部分について、「なぜそう思うのですか?」と自分に聞けば、そのときに答える「理由」から「思い込み」が溢れてきます。
 
私の場合を例に、やってみましょう。
 
 

<問い>
「なぜ、『扉の正解不正解の判断』をするためには、先に『天使か悪魔かの判断』をする必要があり、合計2回の質問しなければいけないのですか?」
 
<理由>
・天使と悪魔は、同じことを聞いたら必ずYes/Noで異なる回答を示すから
・1回のYes/Noの回答では、「天使か悪魔か」「扉が正解か不正解か」の2つの質問にまとめて答えることができないから

 
 
どうでしょうか?

もっともらしい答えですが、「必ずしもそうは言えない」という反論もできるのではないでしょうか。
 
1つずつ、どんな「思い込み」が隠れているか、検討してみましょう。
 

<理由1>
・天使と悪魔は、同じことを聞いたら必ずYes/Noで異なる回答を示すから
 
<思い込み>
・天使と悪魔は必ず同じYes/Noを言う
 
<反論>
・天使と悪魔は、本当に必ず異なる答えを言うのだろうか。質問の仕方によっては、同じYes/Noを答える場合もあるのではないか
  
<検証の方向性>
・質問の仕方によって、天使と悪魔におなじYes/Noを言わせることはできるか?

 
 

<理由2>
・1回のYes/Noの回答では、「天使か悪魔か」「扉が正解か不正解か」の2つの質問にまとめて答えることができないから
 
<思い込み>
・「天使か悪魔か」「扉が正解か不正解か」の2つの質問をしなければ正解の扉は判断できない
・「天使か悪魔か」がわからないと、扉の正解不正解が判断できない
・「扉が正解か不正解か」を質問しなければ扉の正解不正解を判断できない
 
<反論>
・1回の質問でも正解の扉を判断することができるのではないか?(というか、できるからこの設問が成り立っているはず)
・「天使か悪魔か」がわからなくても、何らかの方法で扉の正解不正解が判断できるのではないか?
・扉の正解不正解をダイレクトに聞かなくても判断できるのではないか?
 
<検証の方向性>
・「天使か悪魔か」を判断しないままに、直接扉の成否を判断する質問は作れるか?
・「赤い扉は正解ですか?」など、ダイレクトな聞き方ではない質問の方法はありうるか?

 
 
「普通にやれば」の前提になっている「思い込み」が明らかになれば、その「思い込み」を打ち消す方法を見つける方に、思考を向けることができます。
 

問題解決の現場では、あてずっぽうにあらゆる方向を検討することは絶対にありません。
「思い込み」をベースに、「その思い込みが間違いであるとしたら、どの様なときだろうか」を考えていきます。
 
今回の場合、「検証の方向性」として書いている以下の内容
 
・質問の仕方によって、天使と悪魔におなじYes/Noを言わせることはできるか?
・「天使か悪魔か」を判断しないままに、直接扉の成否を判断する質問は作れるか?
・「赤い扉は正解ですか?」など、ダイレクトな聞き方ではない質問の方法はありうるか?
 
を問題解決のための指針とすることで、手当たり次第の発想ではなく、自分の「思い込み」に狙いを定めた最低限の検討によって答えに至ることができます。
 

ちなみに、人が「思い込み」を持つには、正当な理由があります。
人間はすべての物事をゼロベースで判断することはしませんし、できません。
「こういうときはこう」という判断のパターンを頭の中にもち、あえて思考停止することで、多くの脳内の処理を自動化し、エネルギーの消費を抑えるという大きなメリットがあります。
 
大抵の場合それはうまく機能していますが、ときおり「そのパターンで普通にやっても解決できない場合」に直面します。
そういうときには、いままで省エネルギーのために使っていた前提・思い込みを見直し、より普遍的に良い判断ができるものへと高めるための検討をする必要があります。
 
そして、それこそまさに「問題解決」でやっていること。
 
問題は、解釈する人に依存して存在するのであれば、その解決方法も人の中にあるはずで、そのためのとっかかりこそが「思い込み」なのです。
「思い込み」を顕在化させるには、自分がその思い込みを使っている状態、すなわち、「普通に考えるとこうする」という状態を明らかにし、そして、「なぜそうなのですか?」とWhyの質問を向けることが有効です。
 
「何をパズル一つで回りくどく考えているんだ」と感じるかもしれませんが、意識的であれ無意識的であれ、問題を解くということは、自分の中にある思い込みを書き換えていくことでしかありません。
 
直感を働かせて問題を解くことを、私は否定しません。
しかし、大きな問題に直面し、どうしたらいいかわからなくなって立ち止まったり、自分の可能性を諦めたりすることがないように、あえてこの「プロセス」を明確にしておきたいと考えています。
直感を働かせていくことを是としつつ、「万一のための問題解決のプロセスを知っておくこと」が大事ではないでしょうか。


 

4未知の世界で試行錯誤する

思い込みを明らかにし、解決の方向性を見出したら、あとは様々なやり方を試行錯誤し、ゴールの条件に当てはまるかどうかを試していきます。
 
「何だ、結局は試行錯誤するしかないのか」と思われるかもしれませんが、答えは明確に「Yes」です。
 
なぜ「試行錯誤するしかない」という結論になるのでしょうか。
それは、「自分が慣れ親しんだ思い込みを手放した世界は、自分にとって完全に未知の世界だから」です。
 

問題を解くということは、本来的に自分の思い込みを手放すことであるというのは、述べてきた通りです。
では、自分の思い込みを手放した世界というのは、どういうものでしょうか。
 
少なくとも、自分がこれまで思考停止で頼りにしてきた馴染みのやり方は一切通用しない世界です。
先を見通すことができず、きっと、「これで本当にあっているのだろうか」と、不安な気持ちでいっぱいになるはず。
いっぱい失敗し、いっぱい傷つきます。
それまでの自分が否定されるので精神的にも不安定になりますし、「なんでこんなことをやっているんだろう」と、そもそも論に逃げ帰りたくもなります。
 
それでもなお、問題解決に取り組むのは、その先に得たいなにかがあるからでしょう。
逆に言えば、それがなければ、人は思い込みの世界に留まるはずです。
 
問題を解く人に求められるのは、ゴールの世界を夢見て前に進み続ける覚悟と、うまくいかない宙ぶらりんな状態にも耐える忍耐です。
そして、そうしたエネルギーをなるべく抑えて前に進むための支えになるのが「問題解決のプロセス」を意識して使いこなせることです。
 

実際、プロセスを順を追って分できたことにより、この問題においては
 
・質問の仕方によって、天使と悪魔におなじYes/Noを言わせることはできるか?
・「天使か悪魔か」を判断しないままに、直接扉の成否を判断する質問は作れるか?
・「赤い扉は正解ですか?」など、ダイレクトな聞き方ではない質問の方法はありうるか? 
 
という3つの指針を得ています。
これらが有るのとないのとでは、気持ちも違いますし、かかる時間も全く異なってくるはずです。
 
だいぶ脱線してしまいましたが、今回の問題を解くためには、この3つの指針を使いながら「試行錯誤」します。
愚直に、上から1つずつ検討していきます。
 

<指針1>
・質問の仕方によって、天使と悪魔におなじYes/Noを言わせることはできるか?
 
<考えたこと>
天使と悪魔は、既に明らかになっている事実を聞いたときには、必ず逆のことを言う。
ということは、既に明らかになっている事実ではなく、反対に、「今後明らかになる事実」を聞けば、うまく回答をコントロールできるかもしれない。
天使と悪魔にとって「今後明らかになる事実」とは何だろう。。

 
 

<指針2>
・「天使か悪魔か」を判断しないままに、直接扉の成否を判断する質問は作れるか?
 
<考えたこと>
「天使でも悪魔でもYesと答える質問」が作れれば、天使か悪魔かの判断がなくても扉の正解が判断できる。
なんだ、「指針1」と同じことじゃないか。
でも、そんなことが果たしてできるのだろうか。

 
 

<指針3>
・「赤い扉は正解ですか?」など、ダイレクトな聞き方ではない質問の方法はありうるか?
 
<考えたこと>
扉についてダイレクトに質問するのでなければ、何を聞いたらいいだろうか。
もちろん、扉の正解不正解の話は入れた上で。

 
 
ここまで考える事ができれば
 
・天使と悪魔にとって「今後明らかになる事実」をきく
・「赤い扉は正解ですか?」など、直接的な質問はしない
 
というヒントが得られました。
 
そこから、以下の様なことを考えました。
 

妖精にとって、「既に明らかな事実」ではない、「今後明らかになる事実」ってなんだろう。
どの扉が正解かは、既に決まっていること。
条件の中から「今後明らかになる」といえるのは、「誰が何と言うか」ということだろうか…。
 
「あなたは赤い扉が正解ですかと聞いたら、『Yes』と言いますか?」と聞いてみる。
赤い扉が正解ならば、天使は当然「Yes」という。
悪魔は、「赤い扉が正解だ」とは言わない(=Noと答える)ので、「Yesと言いますか?」という質問には嘘をついて「Yes」という。
なるほど、自己言及させると、悪魔は「裏の裏」をいい、「Yes」というのか。
 
では、赤い扉が不正解だった場合はどうだろう。
天使は当然「No」という。
悪魔は、「赤い扉が正解ですか?」と聞かれたら、嘘をついて「Yes」という。
ということは、「Yesと言いますか?」という問いには、嘘をついて「No」という。
 
つまり、「あなたは」という自己言及を入れることによって、悪魔はYes/Noの答えがひっくり返り、結果的に天使と同じことを言うようになるのか…。
この質問は、
 
・「赤い扉は正解ですか?」など、直接的な質問はしない
 
というヒントとも整合性がとれている。
 
頭が混乱するけれど、とにかくこれで答えにはたどり着けたようだ。
 
(答え)
妖精のどちらか一方に「あなたは赤い扉が正解ですかと聞いたら、『Yes』と言いますか?」と聞く。

 
最後の試行錯誤のところで導き出した答えの質問は、人によって異なることもあるでしょう。

実際、コメントで答えをくれた方の正解には、以下のようなバリエーションがありました。
 
・妖精Aに「妖精Bは赤い扉が正解と言う?」と聞く
・「あなたは『赤が正解?』と聞かれてYESと答えますか」と聞く
・妖精Aに「天使の後ろの扉は正解ですか?」と聞く
 
などの回答がありました(2つ目は私の答えと同じですね)。
 
私が導いた今回の問題のポイントは、「自己言及させると、悪魔は天使と同じことを言ってしまう」ということでした。
しかし、回答例を見ると、自己言及に限らず、「妖精Bは~」など他者言及させてもうまくいくようです。
つまり、自己か他者かに限らず、発言者の回答についての問いを立てると、「論理と真実に律儀な悪魔」は天使と同じことを言ってしまいます。
 
ちなみにこれは「天使と悪魔」という、かなり特異な想定のときにしか成り立ちません。
人間は「相手を騙してやろう」と思った場合、当たり前ですが、問いへの答えに対して嘘をつきます。
しかし、「論理と真実に律儀な悪魔」は、その律儀さ故、結果として相手を騙すことができませんでした。
そういう意味で、悪魔は悪魔の正義を貫いているだけで、決して悪意の存在ではないのかもしれませんね。
 


5「『問題解決』のプロセス」まとめ

だいぶ長い文章になってしまったので、「『問題解決』のプロセス」に関する部分だけをまとめます。
 

【「問題解決」のプロセス 】
 
<前提>
「問題」とは、それ自体が客観的に存在するものではなく、その人の「解決の困難さの認識」に依存する
 
<プロセス>
①問題設定
問題を、「ゴールの状態」と「自分が普通にやったときの状態」のギャップと定義し、自分の言葉で設定する。
 
②「思い込み」の発見
「自分が普通にやったときの状態」について、「なぜそうなのですか?」と問い、理由を答えると、そこに前提となる「思い込み」が現れるので、それを自分の言葉で書き出す。
 
③指針の抽出
書き出された思い込みに自分で反論し、考えるべき方向性を自分の言葉で明確にする。
 
④未知の世界での試行錯誤
思い込みの外の未知の世界で、抽出した指針を頼りに、論理と直感を働かせながら試行錯誤する。
 
<ポイント>
・言葉で表現することを妥協してはいけない。曖昧な言葉で考えても何も得られない
・論理を突き詰めても、最後は直感で試行錯誤するしかないことを受け入れる
・「思い込み」を手放した先は、自分の勘と経験が機能しない、本来的に不安定な未知の世界であるということを受け入れて、粘り強く考える

 
 
これが、現時点で自分が考えうる、普遍的な問題解決のプロセスです。
 
もちろんこれはアウトラインでしかなく、問題解決を上手にやるためには、更にテクニック的なことや、更に原理原則的なこともあります。
 
しかし、それがビジネスでもパズルでも、「問題を解く」ということをする場合には、いつでもこのプロセスを踏んでいることは間違いないと思っています。
 
そして、本質的に大切なのは、「言葉を使った論理的な思考」です。

それがあれば、このプロセスはより上手に活用できますし、言葉にする力が弱ければ、このプロセスを意識して使ったとしてもなかなかうまくいきません(そういう人はどんなやり方をしても言葉の力でとまってしまっているはず)。
 
プロセスを意識しながら、言葉の力を突き詰めていくことが、問題解決の王道ではないかと考えています。

【問題解決力+論理的思考力】の超良問テスト

①目の前に赤い扉と青い扉の2つの扉があります。どちらかが正解、どちらかが不正解の扉で、あなたは正解の扉を選ばなければなりませんが、どちらが正解かはあなたにはわかりません。

  

②扉の前に、AB2人の妖精がいます。一方は常に真実を答える天使、もう一方は常に嘘を答える悪魔です。どちらが天使でどちらが悪魔かは、あなたにはわかりません。

 

③2人の妖精には、扉の正解/不正解がわかっています。

 

④あなたは妖精ABのいずれかに、一度だけ質問をすることができます。妖精はYes/Noで回答します。

 

以上の条件の時に、確実に正解の扉を選び出すための質問を考えてください。

 

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

という問題は、問題解決力や論理的思考力をテストするための非常に良い問題です。

 

答えを出すことではなく、「この考え方で考えれば答えが導き出せる」という普遍性の高い思考プロセスを作り上げることが一番の目的です。

 

ぜひ、【答え】と【考え方】の両方を考えてみてください。

 

 

追伸

私が考えた思考のプロセスは別記事で紹介します。

新卒で入った広告会社を辞めて1年が経った│ウワノキカクの課題意識と取り組み

2016年7月末に、新卒で入った電通を退職し、8月から個人事業主コンサルタントとして事業を行ってきました。
 
企画事務所ウワノキカクは、関西圏の中小企業や個人経営者の方を対象としたビジネスコンサルティングを行っていますが、どの様な課題意識でどの様なコンサルティングを行っているのかについてはあまり表にしていませんでしたので、一度概要をお伝えしたいと思います。
 

ウワノキカクの課題意識と取り組み

変化を生み出すための必須3要素

「変化を生み出すためには何が必要か?」
 
これは昔からずっと考えていることですが、今の自分としては…
 
・変化を起こすことに対する「情熱」
・変化を起こすための方法としての「企画」
・必要な人に届けるための「表現」
 
の3つが必要な要素だと思っています。
 
人間は変化を拒むものなので、その拒絶を乗り越えてまで何かを生み出すためには、抵抗に負けない「情熱」が要る。
 
情熱だけでは変化は起きないので、「どの様に変化を起こすのか?」という問いに対する答えとしての「企画」が要る。
 
いい企画、いいアイデアがあれば十分かというとそうではなく、企画の意義や魅力を関係者に伝え拡げていくための「表現」が要る。
 
もちろん、きれいに分けられないところはありますが、大きくはこの3つの要素を見ていくことで、考えるべきポイントが整理されます。

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学生時代に多く見てきたパターン

学生時代には、NPO法人ROJEの関西学生事務局をはじめとして、教育をテーマに掲げながら様々な企画に携わり、様々な人に出会ってきました。
 
その中で日々感じていたのは、
 
「こんなに魅力的な人が、なぜ社会に評価されていないのか?」
「こんなにおもしろいことをやっているのに、なぜ生活が苦しいのか?」
「こんなに必要とされることをやっているのに、なぜ必要としている人が集まっていないのか?」
 
というギモンです。
 
面白いことを考えている人はたくさんいる。
 
言っているだけではなく、やっている人もたくさんいる。
 
でも、その人の周りで社会がよくなっている感じがあまりしないのはどうしてだろう。
 
思いがあれば、通じる。
 
純粋にそう思っていたときもありましたが、段々とそうではないことに気づきはじめていました。
 
 
 
そして、大学3回生で就活をするくらいになると、自分の中の課題意識として「思いをもって社会のためになることをやっている人が、それをやりながら食っていけないのはおかしいし、もったいない!」と明確に言葉にするようになっていきました。
 
そのときの分析が
 
--- 
「情熱」はあっても、具体的に誰のために何をやっているかという「企画」がニーズに合致していないといけないし、そうであっても更に「表現」という拡げる工夫をしなければならない。
---
 
という今の理解の骨子です。
 
この仮説を手に入れてから、「自分は教育の専門家ではなく、『教育の専門家が生きていけるようにする人』になる」と決め、外資のコンサルファームや広告会社に就職することにし、電通に入社しました。

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こんな社会はもったいない

電通に入社してから見た世界は、自分の仮説をより強固にするものでした。
 
それがまさにスライドのような世界なのですが、事業に対する思いをどれだけ強くもっていても、周囲のひとを動かすものになっていないと影響力をもつことができない。
 
逆に、思いはそれほどなくても、コミュニケーションにロスがなければ、適切に人を動かすことはできる。
 
 
 
そこで、分析のフレームを発展させ
 
---
「情熱」は、エネルギーとして絶対値で考える。
「企画」と「表現」は、その伝達率を表す%で置き換える。
---
 
とすることにしました。
 
 
 
こう理解すると、世の中がよく見えてきます。
 
情熱エネルギーが100あっても、企画力で50%削ぎ落とされ、表現力で10%の力しか発揮できないと、影響力は5しかもてません。
 
しかし、企画力と表現力をマックスまであげることができれば、10の情熱エネルギーで10の影響力をもつことができます。
 
情熱エネルギーが10倍あっても、要領のいい人の半分しか影響力がないのです。
 
これが、人生がイージーモードになるかハードモードになるかの分かれ目かもしれない。
 
影響力のエネルギー効率で20倍の差があれば、収入や社会的地位も当然それだけの差が出る。
 
というか、企画力・表現力は、20倍の差どころの話ではない気がするぞ…。
 
 
 
社会に対する、人の抱える課題に対する、ひたむきな思いだけでは、この社会を快適に生きていくことはできないのです。
 
それは1つの側面として真実だとして受け入れますが、…本当にそれでいいのか?
 
本当に社会にいい影響を与えたいと思っている人が、志半ばで諦めていくことを甘受してしまっていいのか?
 
それは、自分には、できない。
 
その思いが年々募っていき、気づいたら昨年夏に会社を辞めていました。
 
企画や表現の力は、大企業よりも小さな事業者や仕掛け人にこそ必要な能力だ。
 
草の根の革命者たちがそうした力を持ったほうが、社会はもっと魅力的な、生きやすいものになる。

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ウワノキカクにできること

ということで、独立してからというもの、中小企業や個人経営者の方を対象に、ビジネスコンサルティングという形で事業に取り組んで来ました。
 
やっていることは「企画」と「表現」のサポートです。
 
そこだけで勝負すれば、僕よりも優秀な人は社会にあふれていますが、僕の場合、クライアントの情熱の源にある課題認識や思想を理解すること、苦しみや喜びに共感し、同じ思いをもって取り組めることを一つのリソースとしてやっています。
 
ですので、「情熱」がない人、自分には感じられない・理解できない人や企業はクライアントにはしていませんし、できません(実際に魂を売ってお金だけで案件をとったこともありましたが、うまくいきませんでした)。
 
いまは、事業者として強い思いをもって社会変革に取り組んでおり、独自の視点で切り込んでいこうとしている人と仕事をしています。
 
 
 
逆にいうと、できないことは、「情熱」の絶対値を高めることです。
 
そこは本人の神聖な領域として尊重し、いい意味で分業しながら、僕はその人の思いが社会に乗っていくことのみに集中する。
 
そういった形で仕事をさせてもらっています。
 
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ウワノキカクの成果物

コンサルティング」というのは、正直自分でも思いますが、何をやっているのか、どんな結果が生まれるのかがわかりづらいし、やってみないと評価しづらい仕事です。
 
まだまだ明確になっていないなあと思いますが、いまの仕事の具体的な成果物としては
 
---
▼「企画」 
● 調査・分析しターゲットインサイトを資料化する
● 思いとこだわりがあふれる事業や企画を設計する
● 変化にむけた継続的な壁打ち議論の場を設ける
 
▼「表現」
● 人を巻き込むための、思いが伝わる企画書・プレゼンスライドをつくる
● 人を動かすための各種表現物をつくる
 例:Webサイト・社内資料フォーマット・会社案内・チラシ・社内掲示物等
--- 
 
というものを提出しています。

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こんな社会を目指します!

こうした取り組みを通じて、情熱エネルギーが効率よく社会に伝わり、よい影響力をもっていくことを目指しています。
 
まずは自分の実力を高めるためにも、一件ずつのコンサルティングという形で仕事をしていますが、将来的には、自分自身の影響力ももっと効率よく高めていきたいと考えています。
 
 
 
その人が心奪われて仕方ない、人や社会への課題意識を責任を持って突き詰める営みの先に、いまより豊かで幸せな社会がうまれる。
 
やはり、社会という1つの文脈の中には、思想家タイプの人もいれば事業化タイプの人もいますし、リーダータイプの人もいればフォロワータイプの人もいます。
 
得意な在り方で人に貢献し、支え合いながら生きていくことが、理想とする社会の根本原理です。
 
まだまだ「じゃあ、具体的には?」のところには怪しさが伴いますが、自分自身も経験を積み、できることをコツコツと増やしていきます。
  
面白くて幸せな社会をつくっていきましょう。
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投影と自尊感情がSNSへの苦手意識を生む

先日、facebookでこんな記事が流れてきました。
 
lite.blogos.com

 


ここで言われていることについて思うのは…

①全てのエッセイは自慢であるという井上ひさし氏の指摘は至言で、上記の文章もまさに「世の中の事象をこんな風にうまく捉えることが私にはできますよ」という自慢に他ならない。
 

SNSの投稿を自慢であると捉えることは誤っていない。
多かれ少なかれ「良い体験や気づきを得たから共有したい」という気持ちには自慢も含まれているといえるだろう。

 
③ただし、過度に「自慢だ」と感じ、自分が投稿すらできなくなってしまう心理には、投影と低い自尊感情が読み取れる。
「仕事で自慢ばかりしている自分を、SNSの投稿で特定少数の人に知られることは、『あの人はまた自慢している』と揶揄される機会を生むだけではないか」と感じているのだと思うが、それは自分の認知フレームが生むバイアスの投影であり、知られることを恐れる自尊感情の低さの現れである。

 
 
「恥の感情なんかすててSNSやろうぜ!」と言いたいわけではありません。


勿論、著者の方のメンタリティを批判したいわけでもありません(多かれ少なかれみんな一緒だと思っています)。




言いたいことは、「やっぱり日本人は過度な投影と低い自尊感情に悩まされているんだなあ」と再確認したということ。


「こんなことしたら(言ったら)こんなふうに思われてしまうのではないか?」


という思い込みの認知がある限り、「横並び」の社会の在り方は変わらないだろう。


こうした認知をより生きやすい方向に、事業活動を通じて少しずつ変えていくということを、進めていく。

何のために知識を増やす学びを行うのか?

Q.何のために知識を増やす学びを行うのか?
 
 
A.「主体性」を取り戻すため。

 

「知識」は人を幸せにしない

知識を増やすことは、それ自体に良いも悪いもないと思っていて、知識魔神のような人の中には、とても幸福そうな人からとても不幸そうな人まで、かなりのバリエーションがあるように見受けられます。
 
つまり、知識を増やすことそれ自体は、幸せな人生とは直接に因果関係や相関関係を持たないと思っています。
 
 

それでもなお日々新しい知識を取り入れるのは、知識を取り入れることによって、自分の人生を主体的に意思決定できる領域が拡大していくと信じているから。
 
そもそも、人間の脳は環境のすべてを情報処理しているわけではなく、かなり恣意的に情報の取捨選択、カテゴライズ、意味付けをしています。
 
友人と一緒に映画を観ても全く違う感想をもち、全く違う点に気づいているのも、2人の脳では違う情報処理がなされているから。
 
いまでも覚えていますが、『ハリーポッターと賢者の石』を読んだときに、自分は「ハリーはあんなに大きな決断ができるハリーはすばらしい!」と感じましたが、ある友人は「多少嫌なところがあるとは言え、あんな形でお世話になった家から飛び出すのはちょっと信じられない」と言っていたのは印象的でした。
 
こうした違いが生じるのも、まさに見えているものが違い、それをどう意味づけるかというシステムが異なっていたからです。
 
 
 
 

認知の情報処理システムはどう作られるのか

情報処理のシステムは、その瞬間の脳のコンディションで決まります。
 
1つは、それまでに得た経験を統合し、「こういうときはこう反応する」という仕組みが形成されていて、それに従って処理されるということ。
 
いつも自分を褒めてくれる先生を見れば、とても満たされた嬉しい気持ちになったりするのは、「その先生=いいもの」という認知が過去の経験で形成されているから。
 
もう1つは、その時の感情的な状態で、GoodなテンションのときはものごとがすべからくGoodに見え、BadなテンションのときにはBadに見えてしまうということ。
 
幸福度や不幸度(という言い方はしないか)は正のフィードバックループを描き、幸福な人には更なる幸福が、不幸な人には更なる不幸が舞い込んでくるのもこういうことですね。
 
いずれにせよ、脳の認知は「過去」と「現在」が形成します。
 ※実は、この文脈で「未来」がかなり重要な要素であるという話もありますが、ここでは一旦は横においておきます。
 
 

人間が「過去」と「現在」で認知を形成しているということは、言い換えれば、かなり意識的に情報獲得や経験をしないと、無意識的に他者に自分の人生を統御されてしまうということになります。
 
他者に与えられた情報を鵜呑みにし、他者に感情的な体験を強く植え付けられてしまうと、それを土台にしながら自分の認知のシステムを他者に作られてしまうということに繋がります。
 
そうなると「あれ、自分って本当にそんなこと思ってたんだっけ?」「自分で選んだ気がするけれど、本当はあまりこういうのは好きじゃないかもしれないな…」といったことが生じてきます。
 
その違和感は無意識が自分にアラートを鳴らしてくれているということなので決して無碍にしてはいけない感覚だと思っています。
 
どこか、主体的に物事を判断できていないときに内側から生まれてくる大切な「声」です。
 
 
 
 

「知識」は私たちに何をもたらしてくれるのか

しかし、自分の過去の体験を変えることは人間にはできませんので、どうすれば本当の意味で主体的に人生を意思決定できる状態に近づけるのでしょうか?
 
その助けとなるのが「知識」です。
 
知識情報は、自分の脳にある認知を形成する概念的なベースになるので、既に獲得されている知識に基づいてすべての認知のシステムが作られています。
 
勿論それは、「知っていることしか見えない」ということではなく、むしろ「知っていることで知らないものが見える」ということです(→「無知の知」)。
 
脳内の情報処理のシステムが書き換わっていくための1つの重要な要素は、脳に新しい情報を取り込み、自分の認知や情動の在り方、意味付けを変えていくことをするということになります。
 
 

そこで気になるのが、「知識って、結局は誰かが既に形式化したものでしょ?ということは、結局それも含めて他者にコントロールされるということでしかないんじゃない?」という問いが生まれるところです。
 
確かに、知識としてアクセスできる情報の99.99999…%は他者が既に加工した情報です。
 
しかし、より大切なのは「知識を組み合わせてどのような認知構造を作るか」というところです。
 
2人の人間がそれぞれ全く同じ100の情報をもっていたとしても、それらの組み合わせとして生み出される情報処理の在り方が同じであるわけではありません。
 
過去に入ってきた順番や体験に紐づく意味付けの重さなどによって、全く違う認知のシステムを作り上げます。
 
そこに、自分の独自性と主体性が生まれる余地があります。
 
なるべく他者がパッケージ化した情報を排除し、オリジナルな組み合わせを作り、物事の見方を変えていく。
 
そうした営みの先に、主体的な自己決定に向けた選択のベースが作られていきます。
 
 

「知識」の有効活用には組み合わせのオリジナリティが必要

こうした理解を前提に考えれば、新しい知識の獲得という学びには「現状より幾ばくかでも主体的に意思決定できる余地を拡大する」という意義が見いだせます。
 
ではなぜ知識魔神が必ず幸福ではないかというと、そこには「自分がどうなりたいのか」という未来に向けた意思決定がなされていないから、たくさんの知識の意味づけをすべて外部化し、主体的な意思決定ができない状態を維持してしまっているからです。
 
大切なのは、情報の組み合わせのオリジナリティを確立することです。
 


そのオリジナリティを作るために必要なことが2つあります。
 
1つは、ときどきランダムな情報獲得の機会を設けておくこと。
 
2つめは、「未来」に明確なゴールを設定すること。
 
自分の興味関心の先にあること「だけ」を学んでいると、そこにはその情報獲得のプロセスも既に誰かが敷いたレールの上であることも多々あります。
 
そうならないためには、ときどきでかまわないので、全く関心のない情報にもオープンな状態を作り、しっかりとその情報を取り込む努力がとても有効です。
 
そして更に、先ほど横においておいた「未来」を自分の意思で措定し、そこからのフィードバックを得ながら情報の組み合わせの在り方を再検討することが重要です。
 
だからこそ、私たちは「ゴール」というものを設定します。
 
 
 
「ゴールの設定」というテーマはまた改めて扱うとして、「知識を獲得する」という営みが究極的に目指すものが何であるのかを理解しておくことで、知識を獲得することの意義にリアリティが持てますし、更には知識魔神になること自体には意味がないということも判断できます。
 
いま自分に必要な学びを選択するためにも、ぜひ参考になればと思います。